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学問・資格

2015年1月16日 (金)

英語しかできなかった(5)

【鳴かず飛ばずの高校時代】
中学では、主要5科目のみならず、体育、家庭科、音楽、美術を含む全9科目でオール5を取った優等生も、姉の死によってただの零細商店の一人娘。勉強することに意味を見出せなかった。世界に羽ばたく翼は、勉強することだった。けど、もうそんな羽根はいらないのだ。
モチベーションの激しい低下に加え、慣れない電車通学。そして、それまでの井の中の蛙を実感する周りの優秀さ。
すっかりぐれてしまい、最低限の勉強しかしなくなってしまった。
また、進学校のくせに、全く受験指導をしない先生方。今思えば、みんな優秀な上に、早くから「この先生方について行っていては受験は乗り切れない」ということを知っていて、自分で勉強をしていたのだ。そんなことさえ何も気づかず、中学の時と同じように「真面目に授業を聞いていれば大丈夫」なんて思っていた。
ぼやぼやしてる間に3年生になり、志望校さえ決まらない。だってやりたいこと、ないのだもの。
親も無知の極みで、高校行ってれば「うちの子なら京大、阪大大丈夫」と思っていたらしい。子どもが何をしたいか、どうなりたいか、なんて考えたこともない。ただ、親戚に自慢できる名前の通った大学でさえあればよかった。ただ、家から出すつもりはなかった。
というわけで、大学全滅。一浪して、やっと「親友が行きたい」と言っていた東京にある津田塾大学に合格した。

2014年12月22日 (月)

英語しかできなかった(4)

今日はかなり昔に遡る。
自分が自立したいという気持ちを持たせてくれた生い立ちにふれながら。
[父]
父はよく怒る人だった。お酒も飲まないのに、怒っては母を殴ったり蹴ったりしていた。いつもお金がなかったから。祖父の作った借金を長男だからって肩代わりさせられていた。染物の染料を扱う商売を祖父はやっていたらしいが、父は新たに旗屋を開業した。開業資金は母の実家にも借金していたようだ。新しく始めたばかりの店がそんなにすぐに軌道に乗るわけがない。
私が小学校の頃、両親はよく夜中に喧嘩をしていた。最初は何か揉めているような声が子供たちの部屋にまで聞こえてくるのだが、そのうちに怒鳴り声となり、父が暴れ始める。3歳年上の姉と2人、両親の喧嘩の仲裁に入るタイミングを計って、父が母を蹴り始める頃に2人揃って飛び出す。姉の指令は、私が父を止め、姉が母を庇うというもの(私のほうが何故か大変な役目)。
父が本格的に激昂した頃(その頃には何度か蹴りが入っている)、2人でそれっと子供部屋から飛び出し、私は泣いて父にしがみつく。
それでやっと、父のいきおいは止まる。泣くしかない母。不貞寝する父。夜中の騒動はようやく収束し、睡眠不足の小学生の姉妹は朝を待って登校する。今日、家に帰ったら、母はもういないんじゃないかって恐怖心を抱えながら。
不安な気持ちを抱えながら学校から早足で帰る。
何の技術も持たず、1人で生きて行くだけの決意もなかった母は、まだ家にいた。
そんな日々が繰り返されて、父は私が中学2年の時に大きな病気をして入院した。入院は10ヶ月に及び、一時は医師も匙を投げていた。
奇跡的な回復で退院した父は、少しは大人しくなっていたけど、怒りっぽいことに変わりはなかった。でも、動脈硬化(脱疽)で、右足の踵を残して足の甲から切断したため、もう母を自由に?蹴ることはできなくなっていた。
相変わらずお金には困っていたけど、退院した父は、やっと商売に身を入れ始めた。スクーターを使ってあちこち営業に出るようになり、それなりに注文を取ってくるようになった。
やっと生活が安定してきた。
しかし、我が家では誰かが犠牲になるように運命づけられていたのだろうか、父の退院からしばらく経って、姉が突然死した。

2014年12月16日 (火)

英語しかできなかった(3)

【英検の思い出】
英検1級をとったのは、TOEICで990点取ってからだった。
英検とはなぜか相性が悪く、初めて受けたのは英検3級。中学2年生の時だったが、英語の成績は良かったのに、たくさん一緒に受けた中でただ1人不合格だった。自分でも訳わからなかったけど、油断したものだ。そして2級を受けたのが大学3年生の時。遅すぎるだろ!という感じだ。英検1級へのチャレンジは卒業してから。通訳学校に行き始めて集中的に英語のリスニングや単語の記憶に力を入れて少しは自信が着いた頃だった。しかし、一次は受かってもまだアウトプットするだけの蓄積はなかった。2回受けたがいずれも不合格。きちんとスピーチできるようになるまでは、インプット不足。そして、いつの間にか月日が過ぎ、1級を受けた時にはもう50歳となっていた。その頃には自在に話せるようになっていたが、英検の難しいところは語彙。これはきちんと問題集を解いて準備した。
なが〜い道のりだったなぁ。

2014年12月15日 (月)

英語しかできなかった(2)

大学卒業時には、婚約していた。相手は転勤族だった。

就活もせず、4年次には卒業論文の作成と、通訳学校に時間を使っていた。

プロとして、日本全国、何処にいても働くことができる、ということを目標にしていた。それには、通訳がいいのでは、と考えた。

とにかく、いつでも稼げることを目指していた。結婚は永久就職とか言われるけど専業主婦になる気はさらさらなかった。自分が稼ぎにこだわる理由、誰しもそうだが子ども時代の経験が大きい。

私が中学3年の時、高校3年だった姉が突然死した。朝「行ってきます」と出かけ、昼には亡くなっていた。死因は心筋梗塞と書かれていたが、これは原因がわからない時の表現。父が娘のからだが切り刻まれることに堪えられず、解剖を許さなかったので、死因不明のまま姉は荼毘に付された。

その頃の私は学年トップの成績、中学2年生の時には学校始まって以来の女性会長になる、水泳でも学年1番、文武両道の、そして留学を夢見る、元気女子だった。

しかし、姉の突然死により、大阪の個人商店の次女は、突然一人娘になってしまった。

さて、そうなると何が起こるかと言うと、今まで放任だった娘を箱入りにするという両親の過大な干渉がはじまったのだ。大した資産もないくせに、「清美ちゃんは養子とり」だの、「跡取り」だの親戚うちで喧しい。

高校は、国立大学の附属高校に進学した。当時は名門進学校だ。商業高校卒と高校中退の両親からすれば親戚に対して「トンビが鷹を産んだ、と言われる上出来な自慢の娘」だ。だけど、2人にとって自慢ネタ以外の価値はない。

さて、そんな体験をした感受性の強い高校生は、どう考えるようになったかと言うと「養子とりするなら勉強なんかしなくていいやん」ということ。

今まで背中に付けていた羽根がまるでもがれたように羽ばたく気力がなくなった。

もう、この家から出ることはないんだ、一生大阪で暮らすのか…

描かれる将来は、急にしぼんだものになった。

2014年12月14日 (日)

英語しかできなかった(1)

そろそろ自分のキャリアの棚卸しをする時期。新たなキャリアアップに向けて来し方を振り返るとともにキャリアの棚卸しをしたい。

大学が英文科であまり勉強もしないで卒業してしまったものだから、逆に卒業してから英語を使って仕事をするということを常に目指して来た。そう、自分の勉強は大学を卒業してから始まったのだ。

2014年3月 8日 (土)

たちさんのセミナーに参加してきた

立花岳志さんの「なりたい自分になる!目標を達成し夢と希望を掴む「実現力インストール講座」に参加してきました。160万PVを誇るブロガーで、「ノマドワーカーという生き方」他4冊の本を出版し、ノーセカンドライフというタイトルほか、多くのセミナーをこなす、勝間塾生としては誰よりも早く独立された「たちさん」のセミナーには前から参加したかったので、楽しみにしていました。

いろいろ心に沁みるトークもありましたが、自分としては自己開示というか、自分を見つめるワークは実は1番苦手。まあ、それでも、ホントは自分はどうなりたいのか、確認することは大事なので、真面目に取り組みました。
そうして、苦しんで苦しんで見つけた「なりたい自分」とは?

「一瞬一瞬を大切に、75歳になっても、85歳になっても、95歳に(生きてれば)なっても、明るく、心豊かに、元気でいる自分」です。

毎日、振り返りの時間を持ち、日記やメモひいてはブログなどの形にして行きます。そのことで気付きがあると思います。そうして常に未来を明るくして行きたいです。

2013年8月 6日 (火)

ストレングスファインダー再び

自分の特徴的な資質を34の観点から分析するツール、ストレングスファインダーで現れた自分の最も高い傾向は、2011年当時、達成欲、目標志向、学習欲、慎重さ、責任感(上位5つ)であった。
最近、新たに受け直したら、上位5つは達成欲、調和性、収集心、学習欲、責任感という結果がでた。驚いたのは収集心である。自分ではモノを溜め込むのが大嫌い。家の中はスッキリ何もない状態が好きなのだ。そこで、それぞれの資質の特徴について解説をよく読んでみると、実は、収集癖はモノに限らないそうだ。つまり、わたしの場合は情報や、知識への欲求がかなり強いということだ。それが、達成欲と、学習欲と合わさった時に、例えば英語の資格なら、通訳ガイド国家資格、TOEIC990点、各種の翻訳関係の資格、英検1級という結果に繋がっている。また、会計関係の資格は簿記3級から始まり、簿記2級、ファイナンシャルプランナー2級(AFP)、そして今、まさに「集めようとしている」CFP資格(6科目合格で取得。すでに2科目合格)などの資格獲得への原動力となっているのだ。
こうした分析で自分を理解し、強みを活かすことで自分を最大限活かして行きたと思う。
さて、秋に向けてまた、新たな勉強を始めた。私の達成欲は怠け心を許さない。

2013年2月18日 (月)

2013年2月勝間塾合宿「起業」に参加してきました


勝間塾合宿「起業」に参加しました。

自分は、現在の仕事でまだまだ挑戦したいことがあり、また、過去に1人事業主(フリーランスの翻訳業)をしていたので、「起業」なんてとんでもないと考えていました。不安定だし、仕事がなくなるという不安もあるし。

しかし、参加して考えがかわりました。変わったというより、あることに気づいた、というほうが適切でしょう。

そのあること、とは組織にいても起業マインドを常にもっていなければならない、ということです。

仕事をしていく上で、改善すること、新しいアイデア、新しい取り組み、つまり変化する環境に常に応じていく力、イノベーションが必要なことは何処にいようが、どういう組織形態で働いていようが、変わりはないのです。

私の場合は、自分の回りをもっともっとよいものにして行きたい。アイデアをだし、周りをまきこんで(1人でできることは限られているし、起業家も、多くの方々の協力を得て、創業にこぎ着けている)変革をもたらしたい。

社内起業みたいな、最初からエンゼルがいる状況は、自己資本で事業を立ち上げようとしている方々からみたら甘いかもしれません。

が、それでもイノベーションが求められることは、変わらない。
起業家だったらどうするか、という視点を持つことは実は重要なのた、と気づいたのです 。

また新たな視点を持つことができ、課題も見えてきました。合宿に参加して良かったです。






iPhoneからの投稿

2012年9月29日 (土)

結構苦労してます

CFP試験は、6科目合格をもって資格がいただけるのだが、年に2回、春、秋に試験がある。春はライフプランで合格。2科目は金融資産運用設計を受けるつもり。しかし、これがまた、自分に馴染みのない言葉が多くて、答えどころか、問題の意味さえわからないことも。いや、苦労してます。

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