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2014年12月

2014年12月26日 (金)

乳がんとの日々(3)

自分のがんのタイプ、微小乳頭浸潤の再発率は25%。癌の三大療法である手術、放射線、抗がん剤療法をすればその確率が半分になる、という。
抗がん剤の副作用の激しさは、色々聞いている。吐き気、脱毛。何より、自分は2年続けて東京マラソンに当選している。がんは手術で取り去った。なんで生活の質が落ちるようなそんな治療をしなければならないのか?
次から次へと疑問が湧いて来て、考えれば考えるほど「そんな治療は拒否してしまえ」という結論がでてくる。
色々な本を読んだ。
石原結實先生
「もしがんになったら、でもならないために」
http://http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4898317006/ref=mp_s_a_1_14?qid=1420675062&sr=8-14&pi=AC_SX110_SY165_QL70
済陽高穂先生
「今あるガンが消えていく食事」
http://http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4837612199/ref=mp_s_a_1_1?qid=1420679527&sr=8-1&dpPl=1&dpID=517tD4w4LqL&ref=plSrch&pi=SY200_QL4
新谷弘実先生
http://www.amazon.co.jp/病気にならない生き方-ミラクル・エンザイムが寿命を決める-新谷-弘実/dp/4763196197
近藤誠先生
「医者に殺されない47の心得」
http://http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4776207648/ref=mp_s_a_1_1?qid=1420679428&sr=8-1&pi=SY200_QL40&dpPl=1&dpID=51bHYxcIkhL&ref=plSrch

その他、患者さんの立場から書かれた本、ブログ…

お医者さんが書いた本は、大体ご自分の経験から。基礎研究ではなく、臨床の立場。本によってそれぞれ言うことが違う、、どれを選ぶかは、自己責任だ。

高校の同級生にはお医者さんになっている人も多い。その方たちの意見も聞く(抗がん剤には肯定的だった)

主治医は「僕は迷いなくやります」とおっしゃる。

本当に、「体調を崩すほど」悩んだ。夫はもともと、「医者のいうとおり」の人だったが、長女に「パパは勉強しなさすぎ」と一喝されて、一緒に勉強した。

結局、世の中の大勢に抗うほどの知識も、また、勇気もなく、標準治療を受け入れることにした。ただし、自分の中で決めたことがある。
1.抗がん剤治療は2度とやらない。つまり、体質改善により、再発しない身体を作る。
2.抗がん剤に負けない身体を作る。治療中の自己管理をしっかりする

実際には、いざ治療が始まったら、次から次へと副作用がでてきて、それぞれ対応を迫られたのだが、こうした経緯を経て、抗がん剤治療を受けいれることになったのである。

2014年12月22日 (月)

英語しかできなかった(4)

今日はかなり昔に遡る。
自分が自立したいという気持ちを持たせてくれた生い立ちにふれながら。
[父]
父はよく怒る人だった。お酒も飲まないのに、怒っては母を殴ったり蹴ったりしていた。いつもお金がなかったから。祖父の作った借金を長男だからって肩代わりさせられていた。染物の染料を扱う商売を祖父はやっていたらしいが、父は新たに旗屋を開業した。開業資金は母の実家にも借金していたようだ。新しく始めたばかりの店がそんなにすぐに軌道に乗るわけがない。
私が小学校の頃、両親はよく夜中に喧嘩をしていた。最初は何か揉めているような声が子供たちの部屋にまで聞こえてくるのだが、そのうちに怒鳴り声となり、父が暴れ始める。3歳年上の姉と2人、両親の喧嘩の仲裁に入るタイミングを計って、父が母を蹴り始める頃に2人揃って飛び出す。姉の指令は、私が父を止め、姉が母を庇うというもの(私のほうが何故か大変な役目)。
父が本格的に激昂した頃(その頃には何度か蹴りが入っている)、2人でそれっと子供部屋から飛び出し、私は泣いて父にしがみつく。
それでやっと、父のいきおいは止まる。泣くしかない母。不貞寝する父。夜中の騒動はようやく収束し、睡眠不足の小学生の姉妹は朝を待って登校する。今日、家に帰ったら、母はもういないんじゃないかって恐怖心を抱えながら。
不安な気持ちを抱えながら学校から早足で帰る。
何の技術も持たず、1人で生きて行くだけの決意もなかった母は、まだ家にいた。
そんな日々が繰り返されて、父は私が中学2年の時に大きな病気をして入院した。入院は10ヶ月に及び、一時は医師も匙を投げていた。
奇跡的な回復で退院した父は、少しは大人しくなっていたけど、怒りっぽいことに変わりはなかった。でも、動脈硬化(脱疽)で、右足の踵を残して足の甲から切断したため、もう母を自由に?蹴ることはできなくなっていた。
相変わらずお金には困っていたけど、退院した父は、やっと商売に身を入れ始めた。スクーターを使ってあちこち営業に出るようになり、それなりに注文を取ってくるようになった。
やっと生活が安定してきた。
しかし、我が家では誰かが犠牲になるように運命づけられていたのだろうか、父の退院からしばらく経って、姉が突然死した。

2014年12月16日 (火)

英語しかできなかった(3)

【英検の思い出】
英検1級をとったのは、TOEICで990点取ってからだった。
英検とはなぜか相性が悪く、初めて受けたのは英検3級。中学2年生の時だったが、英語の成績は良かったのに、たくさん一緒に受けた中でただ1人不合格だった。自分でも訳わからなかったけど、油断したものだ。そして2級を受けたのが大学3年生の時。遅すぎるだろ!という感じだ。英検1級へのチャレンジは卒業してから。通訳学校に行き始めて集中的に英語のリスニングや単語の記憶に力を入れて少しは自信が着いた頃だった。しかし、一次は受かってもまだアウトプットするだけの蓄積はなかった。2回受けたがいずれも不合格。きちんとスピーチできるようになるまでは、インプット不足。そして、いつの間にか月日が過ぎ、1級を受けた時にはもう50歳となっていた。その頃には自在に話せるようになっていたが、英検の難しいところは語彙。これはきちんと問題集を解いて準備した。
なが〜い道のりだったなぁ。

2014年12月15日 (月)

乳がんとの日々(2)

【放射線治療】
手術後、夏には行きたいところがあった。青森。
田んぼアートを見に行きたいと思っていた。もちろん、バイクで。600キロの距離をひたすら北上するのだ。この話は、別途、ツーリングの項目で書きたい。
治療はそのあとにした。一旦始めると、休むわけにはいかない。6週間、週末を除いて毎日照射しなければならない。
東京マラソンに当選していたため、練習もしなければならない。仕事も休みたくない。
今まで仕事帰りにしていたランニング練習を朝、することにした。仕事は、1時間半遅く始業させてもらうことにし、終業時間をその分ずらすことにした。週2回は朝練を入れた。火曜日、木曜日は朝5時に起き、10キロ走る。それ以外の日はお弁当作り。朝早く起きる分、昼休みは少しでも昼寝をしたい。昼休みの短い時間を少し横になるだけで午後の能率がいいことに気づいたので、できるだけお弁当をつくり、横になる時間に作った。職場には幸い、一人になれるソファのある部屋があった。
毎朝7時半には家を出て、病院に駆けつける。受付が始まるまで立って並ぶ。病院が開いたらすぐに照射の順番をとる。会計まで終わって9時。それから1時間半かけて職場に出勤。
6週間続けた。練習も欠かさず週2回10キロ。
放射線治療は秋分の日の次の日、9月末に終わった。
次の治療は、「死ぬほど嫌な」抗がん剤治療だ。

英語しかできなかった(2)

大学卒業時には、婚約していた。相手は転勤族だった。

就活もせず、4年次には卒業論文の作成と、通訳学校に時間を使っていた。

プロとして、日本全国、何処にいても働くことができる、ということを目標にしていた。それには、通訳がいいのでは、と考えた。

とにかく、いつでも稼げることを目指していた。結婚は永久就職とか言われるけど専業主婦になる気はさらさらなかった。自分が稼ぎにこだわる理由、誰しもそうだが子ども時代の経験が大きい。

私が中学3年の時、高校3年だった姉が突然死した。朝「行ってきます」と出かけ、昼には亡くなっていた。死因は心筋梗塞と書かれていたが、これは原因がわからない時の表現。父が娘のからだが切り刻まれることに堪えられず、解剖を許さなかったので、死因不明のまま姉は荼毘に付された。

その頃の私は学年トップの成績、中学2年生の時には学校始まって以来の女性会長になる、水泳でも学年1番、文武両道の、そして留学を夢見る、元気女子だった。

しかし、姉の突然死により、大阪の個人商店の次女は、突然一人娘になってしまった。

さて、そうなると何が起こるかと言うと、今まで放任だった娘を箱入りにするという両親の過大な干渉がはじまったのだ。大した資産もないくせに、「清美ちゃんは養子とり」だの、「跡取り」だの親戚うちで喧しい。

高校は、国立大学の附属高校に進学した。当時は名門進学校だ。商業高校卒と高校中退の両親からすれば親戚に対して「トンビが鷹を産んだ、と言われる上出来な自慢の娘」だ。だけど、2人にとって自慢ネタ以外の価値はない。

さて、そんな体験をした感受性の強い高校生は、どう考えるようになったかと言うと「養子とりするなら勉強なんかしなくていいやん」ということ。

今まで背中に付けていた羽根がまるでもがれたように羽ばたく気力がなくなった。

もう、この家から出ることはないんだ、一生大阪で暮らすのか…

描かれる将来は、急にしぼんだものになった。

2014年12月14日 (日)

英語しかできなかった(1)

そろそろ自分のキャリアの棚卸しをする時期。新たなキャリアアップに向けて来し方を振り返るとともにキャリアの棚卸しをしたい。

大学が英文科であまり勉強もしないで卒業してしまったものだから、逆に卒業してから英語を使って仕事をするということを常に目指して来た。そう、自分の勉強は大学を卒業してから始まったのだ。

乳がんとの日々(1)

5月に行ったマンモグラフィの結果、いつもとは違って「石灰化」が見られる、ということで、マンモトームと言う病理検査を行うことになった。結果は乳がん。ゼロ期と言うことで、あまり心配しなかったが、すぐに手術が決められた。
乳がん宣告の翌々週には手術。7月7日に入院、8日には局所麻酔による手術。8日には退院と言うスピード入院。大したことない、とタカを括っていた。
7月23日の再来の日、医師は病理検査の結果が予想外であることを告げた。「微小乳頭浸潤」。このタイプは転移しやすく、予後が悪いという。幸い、まだリンパ節転移はなく、再手術の必要もない。しかし、放射線治療は非浸潤よりも1週間長い6週間、その後、抗がん剤治療をするという。
長い治療生活の始まりだった。

東京マラソンに向けて

今日の練習は、20キロ走。先週に引き続き2回目。体調は十分ではないが、とにかく、走れる自信をつけることが大事。キロあたり7分22秒かかったけど、走り切った。年内は20キロ走をメインに、体力と筋肉をつける。年が明けたら月末までに30キロ走れるよう調整する。なんとか、東京マラソン、スタートラインに立つぞ。

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