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2014年12月22日 (月)

英語しかできなかった(4)

今日はかなり昔に遡る。
自分が自立したいという気持ちを持たせてくれた生い立ちにふれながら。
[父]
父はよく怒る人だった。お酒も飲まないのに、怒っては母を殴ったり蹴ったりしていた。いつもお金がなかったから。祖父の作った借金を長男だからって肩代わりさせられていた。染物の染料を扱う商売を祖父はやっていたらしいが、父は新たに旗屋を開業した。開業資金は母の実家にも借金していたようだ。新しく始めたばかりの店がそんなにすぐに軌道に乗るわけがない。
私が小学校の頃、両親はよく夜中に喧嘩をしていた。最初は何か揉めているような声が子供たちの部屋にまで聞こえてくるのだが、そのうちに怒鳴り声となり、父が暴れ始める。3歳年上の姉と2人、両親の喧嘩の仲裁に入るタイミングを計って、父が母を蹴り始める頃に2人揃って飛び出す。姉の指令は、私が父を止め、姉が母を庇うというもの(私のほうが何故か大変な役目)。
父が本格的に激昂した頃(その頃には何度か蹴りが入っている)、2人でそれっと子供部屋から飛び出し、私は泣いて父にしがみつく。
それでやっと、父のいきおいは止まる。泣くしかない母。不貞寝する父。夜中の騒動はようやく収束し、睡眠不足の小学生の姉妹は朝を待って登校する。今日、家に帰ったら、母はもういないんじゃないかって恐怖心を抱えながら。
不安な気持ちを抱えながら学校から早足で帰る。
何の技術も持たず、1人で生きて行くだけの決意もなかった母は、まだ家にいた。
そんな日々が繰り返されて、父は私が中学2年の時に大きな病気をして入院した。入院は10ヶ月に及び、一時は医師も匙を投げていた。
奇跡的な回復で退院した父は、少しは大人しくなっていたけど、怒りっぽいことに変わりはなかった。でも、動脈硬化(脱疽)で、右足の踵を残して足の甲から切断したため、もう母を自由に?蹴ることはできなくなっていた。
相変わらずお金には困っていたけど、退院した父は、やっと商売に身を入れ始めた。スクーターを使ってあちこち営業に出るようになり、それなりに注文を取ってくるようになった。
やっと生活が安定してきた。
しかし、我が家では誰かが犠牲になるように運命づけられていたのだろうか、父の退院からしばらく経って、姉が突然死した。

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